オステオパシーとは
オステオパシーとは、一つの物の考え方です。その中にオステオパシーの哲学や、一つ一つのテクニックがあります。テクニックの名前ではありません。
オステオパシーの歴史
オステオパシー (Osteopathy)は1874年アメリカミズーリ州のカークスビル在住のアンドリュー・テイラー・スティル (Andrew Taylor Still)という医師により創始されました。スティルは南北戦争の従軍医師でしたが、二人の息子と養子を次々と髄膜炎によって亡くしました。
そして自分の無力さを嘆いて、10年研究を重ねた1874年にオステオパシーが出来ました。最初スティルは人の体の自己治癒力を阻害している原因は骨にあると考えていましたが、その後に筋肉やリンパ、内臓、神経、血管などの異常を治せば自己治癒力が高まると考えて広めました。
当初は西洋医学からは受け入れられませんでしたが、そのご多くの人に支持され、1892年にアメリカン・スクール・オブ・オステオパシー(現在はA. T. Still University)がミズーリ州に設立され、1910年に医学認可を受けました。
日本には、大正期にアメリカから日本に伝わったとされています。
オステオパシーの名前の由来
オステオパシーの語源はギリシア語のOsteon(骨)とPathos(病理、治療)の2つの言葉を合わせて作られました。
オステオパシーにおける体の不調の原因
怪我が治ったり、病気が治ったりする力=自己治癒力を上回るストレスがかかった時に病気や不快な症状が発生すると考えられています。オステオパシーでは体性機能障害(Somatic dysfunction)といいます。
オステオパシーのテクニックを施す部分
現在は身体全体の器官や組織全てを治療対象としているので、骨格、関節、筋肉、靭帯、血液(動脈・静脈)、リンパ、脳脊髄液、神経、内臓などに手技を施します。以上を観察して矯正することにより、健康に導きます。
オステオパシーの哲学
1身体は一つのユニットである
2身体は自己治癒力がある
3構造と機能は相互に関係する
4治療は以上の3つの基本になる
オステオパシーが日本に広められた歴史
日本にオステオパシーが入ってきたのはだいたい、明治から大正の1910年ごろとされていて,明治および大正、昭和初期において、手技療法関連の書物の中にオステオパシーという言葉が盛んに使われていました。しかし中身は米国のオステオパシーとは違うものの、我流の技法をオステオパシーの名前で紹介したり、またアメリカのオステオパシーの本の内容を引用したりしていたのがほとんどのようでした。
オステオパシーの名称を本格的に紹介したのは、大正九年十月二十日に発行された、「山田式整體術講習緑」と言われています。「山田式整體術講習緑」全三巻からなっているもので、第一巻はプラナ療法、第二巻は、オステオパシーの原理、そして第三巻は、精神療法になっています。
山田式整體術講習緑が発行された大正9年に、整骨の業務が「柔道整復術」として正式に国の認定を受けた年でもあります。山田氏のように、アメリカから、オステオパシーを学んだのは、故古賀正秀氏がいます。古賀正秀氏が日本オステオ1パシー協会を設立し、古賀式オステオパシーの普及を積極的に行いました。
古賀正秀氏はアメリカのオステオパシー大学の見学等に足を運んでいたそうです。このように、書物の翻訳や独習でオステオパシーを身に付け、オステオパシーの看板をあげた人は数人いたようですが、アメリカのオステオパシー医学と正式な交流を行った人は、日本武道医学の創始者・故中山清という人とされています。
きっかけは当時、ニューヨークで開かれていた世界万博に、日本代表の一人として参加していた中山清氏が、東洋医学の医療技術を会場で披露していたところ、会場に出席していたオステオパシー医学の関係者たちが、中山清氏の技術をみて、交流の依頼をしたそうです。
日本での本格的なセミナーはイギリスのアラン・スタッダードやカリフォルニアとオステオパシー総本家のカークスビル大学のテニング学長以下2人の教授が来日してからで、日本人にはカークスビル・オステオパシー医科大卒の森田博也D.O.がいます。
現在も、まだ日本ではオステオパシーの名前は一般的ではありませんが、オステオパシー医学の積極的な書籍の発刊やセミナーが行われています。日本のカイロプラクティックやオステオパシーの各団体が、アメリカやフランスなどからオステオパシー専門家を招待して、セミナーが行われています。※ロバート・C. フルフォードなどは、オステオパシー自体が日本の整体を元にしていると言う説もあります。
オステオパシーの治療法
治療法を大きく分けると直接法と間接法の二つに分けられます。
直接法
簡単に言うと異常に緊張した筋肉を伸ばして元に戻そうとする技術です。
間接法
間接法は直接法とは逆で緊張した筋肉をさらに緊張させて、人が持つ元の位置に戻ろうとする能力を利用した方法です。
以上の二つを踏まえて、いくつものテクニックがあります。
筋膜リリース
Myofasciarl release ジョン.F.バーンズ P.T.により提唱された、筋肉や筋膜の拘縮をほぐすテクニック。
筋膜リリースとは、筋膜の縮み、ねじれを持続的なやさしいストレッチでリリースするテクニックです。
異常に短縮した筋膜を元の通りにリリースするには、1分半以上の時間を要します。長い場合は5分ほど持続して伸ばす場合もあります。 時間がかかる理由は、2つの線維のうちコラーゲン線維は柔軟で丈夫だけどほとんど伸びません。弾性線維は収縮性があり引き伸ばすことができます。
弾性線維は伸縮性がありすぐに伸びてくるのですが、コラーゲン線維が伸びるのに少し時間がかかります。すぐにやめてしまうとコラーゲン線維が伸びる前に、弾性線維が元に戻ってしまうので、コラーゲン繊維が伸びる90秒以上は続けなければならないからです。
痛みを感じる知覚神経は筋膜に多いので、筋膜リリースをすると痛みが短時間でとれて再発しにくいです。
内臓マニピュレーション
フランスのジャン ピエール バラルD.O.が広めたテクニックです。
内臓と背骨や精神の関連を明らかにしたそうで、特定の内臓の機能異常が、感情と共通していると唱えています。 内臓には呼吸に同調した動きと内臓自体の動きがあり、内臓マニピュレーションでは、内臓を調整することによりその両方の内臓の働きを良くさせて健康に導くテクニックです。
クラシカルオステオパシー
アメリカでは、オステオパシーのさまざまなテクニックが開発されていきましたが、スティルから学んだリトルジョンがイギリスに伝えたオステオパシーの手法を、現代に伝えたものとして、一般的にクラシカルオステオパシーと呼びます。
ストレイン・カウンターストレイン
1964年にオステオパシードクターであるローレンス.H.ジョーンズ医師により発表されたテクニック。拘縮を起こした筋肉をもっと縮める状態、姿勢、楽な位置にもってゆき、痛みや可動範囲の減少を除去する治療法と言ってもいいかもしれません。関節が動きにくい場合、関節に原因はなく、その関節を曲げたり伸ばしたりする筋肉に原因があることがあります。
関節に過度の力が加わるか、長時間の負荷がかかった時に急に戻ろうとすると、筋肉が急に引き伸ばされ、ストレッチ反射=異常収縮が起こります。ストレッチ反射とは、筋肉が急に引き伸ばされたとき、そうさせまいとするからだの防衛反応のようなものです。異常収縮が起こったままだと関節の動きが制限されて、以上収縮している筋肉が引き伸ばされとき、痛みや可動範囲が狭まるなどの症状がでます。
カウンターストレインは、この筋肉の異常収縮を解除するテクニックです。異常収縮をしている筋肉を、もっとも痛みが軽くなる方向、いちばん楽な姿勢にもってゆき、しばらくその状態を保つと異常収縮がなくなります。 何年も続く原因の分らない痛みが、90秒間ほどカウンターストレインのテクニックを受けるだけで消失してしまうこともあります。
筋エネルギーテクニック
METは、施術者が短縮した筋肉を、制限を受けている関節可動域の限界まで持っていき、そこで相手にその筋肉に力を入れるように指示します。施術者は、患者の力に対して抵抗するように力を入れる動作を何回か繰り返すと、短縮した筋肉や周囲の組織を徐々に伸びて筋や関節の動きが改善するテクニックです。